安部 貴住 個展 「CIRCULATE 」

2005.09.13(tue)-10.02(sun)

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取りまく「在る」ものの媒介者として (DMより転載)

空間に散らばって明滅するハンガーに取り付けられたかそけき光は、各々の存在を主張するというよりは、その継起が個々の存在を包括する運動全体のリズムを現前させ(project for actual art 001)、トイレットペーパーによって作られた仮想のシャーレは、微視的な世界への参照によって、瞳と対象の間に横たわる広大で無限の「無視された」ある層の積み重なりを私たちに想起させる(one against 2)。

安部貴住は、大気や温度、生体のリズム(呼吸、脈拍)などの、目には見えないが確かに「在る」ものへと、私たちの注意を向けさせる。通常、目や耳が行う言葉や情報の交換の運動の外にあるその「在る」ものは、それ自体別の運動であって、私たちの生を取り囲み、多大な影響を及ぼしている。その「在る」もののことを、私たちは「自然」や「環境」などと呼び習わしているのかも知れない。安部はその「在る」ものをcirculate(循環する)と動詞で呼び、その存在を解釈するよりも、むしろその運動のただ中に介入し、運動そのものの強度を、目や耳にも感覚させようとする。まるで変種のシャーマンのように。
しかし、このシャーマンは、非文明化社会に多く見受けられるアニミズムに直結するものではない。なぜならこのシャーマンは「在る」ものを言葉として伝える(解釈する)わけではなく、また呪術ではなく近代的なテクノロジーを駆使するからだ。

そして、アニミズムのシャーマンが「在る」ものへの畏怖によって「そうさせられる」のに対し、このシャーマンは「在る」ものの無類の力に魅惑されて「そうする」存在である。物事を切り分け、固定化する言葉を越えて、「在る」ものが圧倒的に「打ちのめす」ところに、このシャーマンは何度も立ち合っている。

しかし、circulateはcircleを源とするから、その巨大な運動には出口がないことも意味するだろう。circulateの媒介者となることで、魅惑されたもの自体がcirculateそのもの似てしまう危険は多大にある。単なる媒介者としてではなく、アーティストとして、制度やルーティンの悪循環を食い破っていくこと。安部の今回のart space tetraでの個展はその試金石になる。


[plan] art space tetra
[DM design] attic associates

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