江上計太の生き抜き方

展覧会「EGAMI KEITA NEW DEPARTURE」期間中に行われたアーティスト・トークの内容をお届けします。(全3回)

2008年12月6日 江上計太+三嶋昭洋
(テープおこし:小山冴子)
三嶋 この展覧会は今月の21日まであります。展覧会と名乗っているんですが、作品を見てもらうだけじゃなくて、つくっているところも一緒に見てもらおうということで、今こういう状態(作品の制作途中で、材料が所狭しと散らかり、座るのにも困る状態)です。今日はその期間中の最初のイベントとして「アーティストトーク」と称して江上さんにお話を伺おうと思います。

江上さんはご自身の経歴というか、IAFを始められたときから現在にいたるまでを、今までさんざん色んなところで話をされていて、また、文章も書かれたりされていますし、そこはなんか、いいのかなと思っています。で、今日は江上さんの作品が何かっていうことよりも、江上さんが約30年くらいやってこられたその状況論といいますか、どういう状況の中でやってきたかという話を聞きたいと思います。

egamiishima1.jpgご存知かと思いますが、11月30日まで(ギャラリー・)アートリエで、『九州でアートすることはなにか』っていうような、正確なタイトルはあれですけど、そのような展覧会があっていました。最終日近くにトークがあったようで、残念ながら私はいけなかったのですが、その展覧会タイトルから興味をもっていました。東京にいって、まあそれなりの名声を得て、お金をもらって、それでアートで食っていくっていうある種のライフコースがあるとして、そうではない、地方でなんらかの形で表現活動をやっていくっていうことに対して、面白い発言があったりしたのかなっておもっていましたが、聞き伝わるところによると、そうではなかったようですが…。で、そういうタイトルを掲げ展覧会をやる若い人がいて、逆に江上さんはそれを地でいってきたと。大学を卒業されて福岡に戻ってきて、で、ずっと福岡に住まわれて作家活動をされてこられたっていう。そこをこう対比してみるっていうか、若い人たちがこれから江上さんの年齢になるにはまだ20~30年くらいあるとおもうんですけど、どういう風に生きていったらいいかっていうか。そういうリアルに為になる話が聞けたらなと。今回ちょっとお話を聞きたいとおもいます。
※「飛び出せ!!Made in 九州 〜九州でアートするということ〜」(ギャラリー・アートリエ、福岡市博多区)
2008年10月11日(土)〜11月30日(日)
江上 なんか、話が堅いですね(笑)敬語はやめましょうよ。
三嶋 すいません(笑)。私は江上さんがIAFというお店をされていて、土曜日になると必ずいらっしゃって、そこに行くといろいろな話が聞けるというのがあって、本当は、個人的にいろんな話を聞いていて、あぁもう聞くことねーなっていうのがあるんですが(笑)。がんばってやってみます。最初に今回の展覧会の経緯を少しお話しておくと、実は去年の終わりに江上さんがある方から依頼を受けられて作品をつくることになりました。で、その作品をつくるのに、テトラを作品の制作場所としてお貸ししたんです。そのときに僕ら制作場所の賃料として、いくらかお金をいただいて。実はそれを元手に今回の展覧会を企画しました。それが具体的にいうと10万円くらいお渡しして、それを制作費に、1ヶ月の展覧会をしますという形なんです。まずお聞きしたいのが、江上さんも今年57歳になられて、今年もNINAI展とか、ヴァルトでもされていましたけど、そのときに実際展覧会をするときってお金かかるんですけど、そのお金ってどういう風にされているんですか?
※実際は5万円。
江上 えーお金ですか。お金は・・そうですね。たとえばこの展示でおそらく、トータルで5万円くらいだとおもうんですよ。材料費とか全部込みでいろいろかかって。まあ、交通費までいれると大きくなりますけど。5万円くらいの材料費でなんか組み立てよう。そんな感じですね。(通常は)奥さんに「お願いします」って、「なんか展覧会やるんで」って言って(笑)。「まあしょうがねえな」ってもらえる、そのくらいの感じでしかほとんど展覧会ってやらないですね。美術館の企画展だと制作費とか別でもらえるわけじゃん。そんなのは普通はたいした額じゃないんですけれど。だから自分で自主的に展覧会をやるときには、だいたいその5万前後の予算でやる。僕は、特にこうやってインスタレーションをやるときには特に、使い捨てじゃないですけれど、残るわけじゃないから、使用して消えていくわけですから、できるだけチープな素材でなんかこうやるっていうことをいつも心がけていますから。お金がないんじゃなくてね、どうしているかっていえば奥さんにお願いしてね(笑)。
三嶋 福岡に1977年、約30年前に帰ってこられて、IAFっていう場所で山野(真悟)さんに銅版画を教えてもらって、それでだんだん作家としてなっていくってときに、最初は当然美術館のオファーがあるわけでもないでしょうから、普通にアルバイトをしてお金を貯めて、それを元手にやっていたってわけですか?
江上 そうですね。僕はほとんど、ずっとプータローなんですよね。ある意味本当に就職したことがないわけですから(笑)。アルバイトっていうかね。昔は子供の教室というか、絵画教室というか、そういうものをちょっとやったりとか、学生時代も土方に近い仕事とか、そういうものですよね。
三嶋 それでやはりお金を貯めて…。
江上 学生のときは何もやってないですけどね。
三嶋 っていうか山野さんはお金持ちなのですか?
江上 まあ山野さんは僕より遥かにお坊ちゃまじゃないかと思います。たぶん。
三嶋 全然状況は違うとはおもうんですけど、ヨーロッパの画家とかってパトロンがいてってイメージがあるじゃないですか。これは僕の勝手な印象なんでが、江上さんがずっとやってこれたのは、山野さんという人がいて、山野さんがお金出してんじゃないかとかそういうことをおもっていたんですけど?
江上 あの、あそこのIAFそのものの経費というか、まあそれはほとんど山野さんの個人負担というか、そういう感じですよね。僕は教室をやって、その教室の月謝みたいなものを納めるというか。基本的にはそういう感じで少しでも。僕はお金出せないから、経済的にはそんな感じでしたね。
三嶋 IAFが立上がったのが78年ですか?
江上 ですね。77か78年かな。
三嶋 それは山野さん中心にやられていたっていうことなんですけど、そのときに江上さん別に自分でお金出して山野さんと同等で運営していたって感じではないんですね?
江上 ないない。僕はなんにもできないしね。ようするにその、その当時僕は実際何もつくってないし。だから何もできなかったんです、実際に。だからギター教室を最初やったんです(笑)。生徒さん2人か3人来てね、ギターを教えてその上がりをですね…。
三嶋 江上さん昔ギター教えていたんですか_
江上 僕は昔クラッシック・ギターやっていたからね。だからクラッシック・ギター教えていたんですよ。
三嶋 そうですかそれは初耳だな。いや、今なんでこんな話をしているかっていうと、今回また大賀アパートでしたっけ…できるってことがありますね。僕らは、ちょっと愚痴っぽくなるんですけが、何らかの金銭的な余裕があるわけでない中でやっていて、それって、一番最初の話ですけど、最初江上さんから、できるだけチープな素材でやるっていう話がありましたよね。それはこだわってやっていたんじゃなくて、しょうがなくやっていたんですか?
※旧大賀APスタジオ
江上 そうですね。実際にそういうお金ないわけで…。なんていうかな、必然的にそういう風になっちゃうっていうか。お金もないし、制作場所もないし、何もないわけですよ。でもそういう所で何かやれる方法みたいなものを見出していくしか基本的にはないわけですよ。だから巨大なアトリエがもしあって、お金もあったとしたら、なんかこうダサい彫刻とかつくっていたかもしれないけど(笑)。そういう条件はないわけですから。何もない狭いところで作らないといけないし、お金もないし、でも何かやれることがあるかもしれない、みたいなところで見出していくしかないですよね。
三嶋 お金は生きていくために必要じゃないですか。でも自分の生活があり、作家活動があるっていうときに、でもそれでもなんとか無い金のなかでもやろうという思いは、失礼な言い方かもしれないですが、奥さんと結婚するまでもあったと。それまではやっぱり作家活動はやめようとはおもわなかったのですか?
江上 作家活動をやめるっていうのは?
三嶋 お金がないから、お金のせいでもってやめようかなとか、そういうことは?
江上 そんなことはないですね。ただ一時挫折しかけたことはありますね。もう美術やっていてもしょうがないなみたいなおもいにかられたことはありましたね。だからたぶん87年か88年なんですけど、何も発表してない時がありました。なんとなく限界を感じていた時期もあって、このままやっていてもどうしようもないな、なんの展望もないなっていう感覚に襲われることはありましたね。
三嶋 それは作家としてですか、それとも自分の生活っていうことに関してですか?
江上 それまでずっと地元の人たちとグループ展を中心にやっていたんです。そして山野さんがつくったネットに乗って外に出ていく、フィールドワークみたいな形で。地方のアーティスト・ネットワークみたいのがあって、大阪とか札幌とか、そういう地方に巡業にいくじゃないですけど、そういうことをやっていたんです。そういうことはなんのサポートもなくって、自分達でまあ手弁当で出し合ってやっていくっていう、そういう活動形態ですね、80年代までは。で、なんとなくそれが一周しちゃってね、87年くらいに。でその後なんていうかな、このままずっとやっていてもあまり展望がないなっていう感じになってきたんです。
三嶋 その展望っていうのはそれで食っていけるかどうかっていうことですか?
江上 美術家としてやっていけるかなってことですよね。
三嶋 もうやることねえなっていう思いでは?
江上 じゃない、それじゃない。
三嶋 テトラにもちょっと前に北海道にプラハっていう共同の制作場所をもっているアーティストのネットワークがあってそこに関わる人が来ていました。当時もあういう感じだったんですか?
※「PRAHA Project」北海道を拠点に、アートの実験と環境づくりを実践する計画(集団)
江上 そうですね。基本的には川俣正さんが福岡に、83年くらいに福岡市美で展覧会に来るんですね。で川俣さん、戸谷(茂雄)さん、保科(豊巳)さんの3人の展覧会が市美であって、僕もそうだし山野さんもそうですけど、川俣に圧倒的に影響を受けるんですね。そしてその川俣さんがもっている、なんというんですか…、その当時あの人はどんどん田舎にいっては、何かこうつくってくみたいなそういうことをやっていて、まだそんなにメジャーな時代じゃないんです。出端というか。それでいろんなところに、熊本とか松山とか、いろんなところに巡業していたんですね。その川俣がもっているネットワークを山野さんがある意味使って、アーティスト同士を結びつけて展覧会を企画していくみたいな感じで動くんです。
三嶋 その80年代初頭当時は川俣ってスターだったんですか?
江上 今みたいな感じではないですけど、「新進の!」って感じですよね。とにかくそれで僕は「こういうものをインスタレーションと呼ぶんだ」っていうのを理解できたって感じですよね。
三嶋 それは大きい?
江上 ですね。
三嶋 テトラは2004年から始まりました。それ以前に北九州のSOAPができたり、三号倉庫ができたりしていて、今若い人が、大学卒業していて、いきなりギャラリーを借りて個展をやるっていうのがありえるとおもうんですけど、江上さんのホームページに展覧会の履歴が載っているんですが、80年代にやっているのって全部グループ展で、場所も市美とか県美とかですよね。それって借りてやっていたんですか?
江上 借りてます、借りてます。作家がいくらか出し合って、それでやっているんです。
三嶋 他になんか小さなギャラリーとかはなかったんですか?
江上 商業施設みたいなのが少しできてくるんですよ、80年代の半ば以後に。エリアドゥとか、ピラミッドゾーンとかですね。そこがある種のギャラリーをもって、そこに(宮本)初音さんや山野さんが交渉に行って、とりあえず場所だけはタダで提供してもらうみたいな、感じにまでは漕ぎ着けていましたね。当時。80年代の半ばくらい。
三嶋 今も当然美術館には貸す場所とかってありますよね。そこでいろんな展覧会があっているんだけど、江上さんたちがそういう所を借りるときって、今後市美で本当にやるために学芸員の人に見てもらう意識ってあったんですか?
江上 ないですね。学芸員さんはね。僕ら研究会やっていたじゃないですか。だからそれをやっていくうえで、テキストをどういうものを勉強したらいいか相談するということはありました。例えば僕らが(IAF)現代美術研究会(室)っていうのを始めたときに、黒田(雷児)さんはまだいなくて、帯金(章郎)さんっていう人がいらっしゃいました。その帯金さんに相談しました。研究会するんですけど参加しませんか、と。それで『ミニマルアート』と『コンセプチュアルアート』を購読しようという話になっていったんですよ。
三嶋 なるほど。それが80年代半ば。
江上 半ばというか前半ですよ。
(続く)

江上計太の生き抜き方(1/3)

江上計太の生き抜き方(2/3)

江上計太の生き抜き方(3/3)

SPECIAL