Die Garage – ein unvollendetes Projekt: For the new departure of Egami Keita

TEXT : 岩本史緒, Fumiwo Iwamoto / 2008.12.21

 江上計太は黄金比をベースとした構築的作品で知られる現代美術作家である。理論的に最も美しいとされる黄金比を用いることから、一般的に江上の作品は、その高度に自律的な形式性によって理解されてきた。しかし一方でそこには、形式性を突き詰めた先に生じるある種のアンバランスと、破綻の直前に一瞬垣間見えるような美的瞬間を掴もうとする衝動のようなものが内包されている。このテキストは、江上の作品に内在するこうした傾向を、この10年ほどの江上の作品を語る上で重要な「ガレージ」という概念を通して理解しようとするとともに、そのアプローチの可能性について考察するためのものである。

 江上が「ガレージ」という言葉を展示の中で使ったのは、1998年にモダンアートバンクWALDで行われた「ユートピアン・ガレージ」が最初であろう。「ユートピアン・ガレージ」は二会期構成になっており、江上の個展の後、江上と3人の作家(宮川敬一、牛島智子、鈴木敦)のコラボレーションが行われた。このコラボレーションは、それに先立つ江上の展示作品を、空間も含めすべて、3人の作家に明け渡すという形で、言い換えれば3人の作家が江上の作品とその空間に自由に介入することによって行われた。それまでの、どちらかといえばシステマティックに、独自の形式的美学言語を追求する江上のスタイルを考えると、この時の展示はかなり思い切った試みであったといえよう。もちろんそれ以前から、ベニヤをベースとしたソリッドで構築的な形態から、テープや紙といった、薄っぺらく、耐久性が低い素材の使用とそれに基づく形態の変化は見られたし、テープによって展示空間に直接手を加えていくサイトスペシフィックな空間構成の試みなど、アプローチの多様化はあったものの、自身の作品を完全に他者に明け渡すという試みはこの時が初めてであったし、そうした試みを包括する概念として「ガレージ」が提示されたのも、やはり、この時が初めてであった。

 ガレージは、元々60年代を中心に主にアメリカ合衆国においてシーンを形成した音楽のジャンルであり、その名が示す通り、郊外のミドルクラスの若者が、自宅のガレージを使用して作り出した、ローファイあるいはDIY的な一連の作品を指す。ただし江上にとっての「ガレージ」を語る際には、こうした一般的な時代区分はあまり重要ではない。例えば江上がガレージ・バンドとしてしばしば名前を持ち出すJoy Divisionは年代的には70年代後半になって出てきたバンドであり、カテゴリー的にもポスト・パンクのはしりとして取り上げられることが多い。そもそもガレージというジャンル自体がかなり後付け的な所がある感は否めず、ガレージ・シーンを代表するようなバンドや楽曲、あるいはスタイルといったものは完全には定義しきれないのが実情であろう。ガレージとしてカテゴライズされているようなバンドであっても、実際はポスト・パンクやサイケデリックといったジャンルでより知られている場合も多い。

 それでは、江上があえて「ガレージ」という言葉にこだわることで、浮かび上がらせようとするその特徴あるいは精神とは何なのだろう。ロックの原型と言われながら、ある定まったスタイルの確立には至らなかったガレージ。その歴史的/文化的意味合いを考慮し、ガレージを、例えば「高度な技術を必要とせず」、「すでに作られた形式性やある完成された形式によりかからず」、「どちらかといえば、アドリブや即興的な要素を含んだ永遠に未完結な」傾向を持つものとして理解することはあながち的外れとはいえないだろう。江上の作品に見られるような、正確なカット技術と体力が要求されるベニヤから紙やテープへの素材の移行や、自身の作品の他者への明け渡しといった行為、政策の場を人々と共有する、あるいは制作のプロセスに他者や空間との関係性を持ち込む行為は、こうしたガレージの精神を反映したものともいえる。そしてこうした試みは、ある完成された形式を手放し、そのことによって不確実な要素を自身の作品を構成する部分として認識すると共に、それらとの有機的連関を通して、オルタナティブな美的形式性を再構築しようとする江上の意思であり、そうした試みを通じて、永遠に自己のスタイルを更新し続ける決意でもある。 その意味において、江上の試みは、いわゆる西洋的近代美術がその発展と行き詰まりの中で提示した、ある形式性、合理性の貫徹とは別のベクトルを探るものになる。近代的合理性の貫徹が、単に外的なものからの自律ではなく、最終的に外的なものの消滅による内的論理性の完成=外的なものに対する暴力に向かったのに対し、「ガレージ」的アプローチは、作品の外を認識し、それとの関係を含めたある連関を模索する。そこでいう外部とは、作品が成立する場所の性質や歴史的・文化的要素、社会的背景、観客の存在といったものであり、外部との連関を模索するということは、作品の内に、作家や作品のコントロールを超えた要素が介入する余地をもうけること、またそれらを含めた表象の形式を成立させることになる。ノイズとしての外部の存在を認識すること。そしてそれを意図的に作品の内に持ち込むことで、自身を常に自身から遠い場所に置くこと。そこからある予期し得ない状況、ハプニンングを生じさせると共に、そのことによって作品を、そして自分自身を解体/再構築しようとする挑戦。それは、作家自身が自らの作り上げてきたものによって固定化/規定化されることへの抵抗であり、ただ自身だけを拠り所に、今いる場所の先にある、まだ形にならない何かを見ようとする、あがきにも似た祈りのようなものでもある。 そうしたぎりぎりの所で初めて、「ガレージ」は、その時その場所でしか成立しえないような、ある連関を生じさせる可能性を得る。それが江上にとっての「ユートピア」のイメージである、ともいえる。

 ただここで重要なのは、江上の思惑あるいは願いにも関わらず、江上の「ガレージ」的アプローチが、これまでことごとく失敗してきている、ということである。WALDでの展示についていえば、展示空間に持ち込まれた様々なオブジェクトの存在と作品への介入の痕跡は、江上の作品が持つ形式性の強固さを露呈させるのみであったし、近年頻繁に試みられている制作公開も、それがガレージのスタイルを表現として構築するのに有効な手段となり得ているかは疑問である。外部に開かれた形式を目指しながらも、その試みが失敗していることは、言い換えれば、江上の外部の設定自体に問題あるいは限界があるともいえる。自分以外の他者を展示空間に介入させれば自動的に自己の作品が解体されるわけではないし、そもそもそこで招き入れられた他者が外部として機能していたのか、そもそも作品を外に開くということが本質的に可能なのか、という問題も残る。そしてこうした失敗の背後に見えるのは、形式化されたものの破壊をめざしながらも、その破壊ですら、ある美的形式の範疇で構想してしまう、ある意味、「美」というものに対し、徹底的にモダニストな江上の立場であるようにも思える。 江上の展示タイトルとしてしばしば使用される「ユートピア」という言葉にしても、それが近代的合理性の貫徹とは異なる地点を目指しているとはいえ、美という概念を、ある形式のうちに成立する理想的配置連関として展望することもまた、美術の自律性という近代的ビジョンの内部でしか成立しえないものであるともいえる。内的な完結性をはなれ、常に変容する、自分自身から遠い所にある様々な条件や要素を考慮しながら、それらの動きが何かの拍子にある美的連関を成立させ得るかもしれない、という可能性の次元に向かって作品を作るということは、形式の固定化への抵抗というリアルな切実さを内包してはいるものの、一方でどうしようもなく理想主義的であることもまた確かである。

 ところで、本テキストのタイトル「ガレージ-未完のプロジェクト」は、ドイツの現代思想家、ユルゲン・ハバーマスの「近代-未完のプロジェクト」(Die Moderne: ein unvollendetes Projekt、近代―未完のプロジェクト、三島憲一訳、岩波現代文庫、2000)に由来する。ハバーマスは、近代(モデルネ:一定の時代区分であると同時に当時における現代性そのもの)を、伝統や歴史といったものから自立したある独自の合理的普遍性を打ち立てるためのプロジェクトと見る。近代的合理主義の運動そのものの内に、それ自身の理想を必然的に不可能にするような局面があると見るテオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーの立場に対し、むしろ問題は、近代的合理性の実践手法の側(「行き過ぎた止揚のプログラム」)にあるというのがハバーマスの立場であり、その思想の特徴でもある。 近代がそれ以前と決定的に異なるのは、それが、科学であれ美術であれ、その外側にある曖昧な、あるいはすでに硬直化/形骸化された権威的基盤を離れ、それぞれが自律したシステムを形成すると共に、そのシステム自身を客体化することで、自己自身を絶え間なく更新していく、その運動性ゆえのことである。そして「モデルネのプロジェクト」の神髄は、知の合理化の過程でそれぞれ高度に自律・専門家した各領域(科学、法・道徳、美術)が、それぞれの内部で自律性を追求すると共に、それぞれの領域で「集積された知的潜在力を特殊な人間にしかわからない高踏的なあり方から解き放ち、実践のために、つまり、理性的な生活を形成するために役立てること」にある(23)。ハバーマスにとって、近代というプロジェクトが内包するこうした豊かさを回復することは、日常の実践の場としての生活世界において要求される領域横断的思考方法や、日常の視点から専門的知に介入するような思考/行動原則(対話的合理性)を近代的合理性(高度に自律化=専門家することによって生活世界から剥離してしまったそれ)の圧力から掬い上げること、すなわち、近代的合理性の誤った止揚により分断された諸領域をもう一度生活世界という場において総合的に融和させることに等しい。残念なことに、「近代-未完のプロジェクト」の中で、この諸領域の総合的融和のビジョンは非常に不十分な形でしか描かれないが、一つ重要なのは、この融和にとって必要なのは、諸領域の自律性の単純な破壊ではなく、それぞれに自律した領域の間にある連関を生み出すことにある。ハバーマスが批判するのは、諸領域の行き過ぎた専門化/自律化と、その結果の分断であり、融和のために個々の領域における垂直的構造の横っ腹に水平的な連携の回路を開けることが展望される。そして、それは同時に高度に専門家された諸領域との関係の内で、ないがしろにされてきた生活世界の自律化および、生活世界と諸領域との間に、日常的で現在的諸問題を通じた実践的連関を構築することでもある。

 美術に限らずあらゆる表現行為において形式化の問題は避けて通ることができない。そして形式化とは、その過程で必然的に形式に当てはまらないイレギュラーな要素を切り捨てることで自らを純化・普遍化する。近代的合理性が暴力へと転化したのは、それが自己のシステムを純化していく過程で必然的にそこに当てはまらない人々や自然といったものを、内実を持たない空虚な資源として切り捨ててると同時に自己の形式性を支える基盤として搾取してきたからであるが、美術においても様々な形でこの構造的な内部と外部の分断は行われており、その分断を転換する試み、あるいは形式化された内部に対し外部の存在を認識し、その役割を回復しようとする動きがヨーロッパにおけるシュルレアリスムやその後に続くダダといった動きであるともいえる。

 そのようにして見れば、江上のこれまでの作品の流れに見られるような、自律的法則性の構築とその緩やかな解体、そして解体の行き詰まりから生じる、様々な、一見非美術的にも見える行為の連なりは、江上がその内で自らを獲得すると同時に捕われているある近代的合理性といったものを解体し、そこからオルタナティブな可能性、すなわち形式性とそこからこぼれ落ちるものとの間にある種の融和状態を紡ぎだすために必要かつ実践的な作業といえるかもしれない。あくまでもモデルネの美学をあきらめることなく、その困難と不可能性も抱え込んだまま、一方で作品の自律化と形式化の流れの中で否応なく失われていくようなささやかなものを手放さず、それら諸要素の間に、ある融和へと向かう連関を探り続けること。そのような瞬間に向けて、自身を修練していくこと。例え失敗し続けたとしても…

 江上の試みは、近代美術が直面した困難や問題との、全うすぎるほどに全うな対峙である。しかしそこには同時に、今という時代に表現を行う者にとって避けることのできない切実な問いが内包されている。時にナイーブなまでの理想主義と、不完全な近代を抱えながらも、未だに江上の作品が周りの人間の関心を捉えて離さないのはそのためであり、誰もが心のどこかで常に、江上の「新しい出発」を期待し続けているのもそのためなのだろう。

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